【Patina哲学】第三回 1000年のものとの出会い
モノ・コト・ヒトの経年変化を味わい楽しむブログ
長い長い時間を纏うもの
1000年の時間を保有するものは、それだけで意味がある。独特の匂いだったり、古くなった重厚感だったり、静けさだったり。五感で感じるものもあるが、それ以外のところで、心が時間の折り重なりを感じる。何か記録された特別な一日があったわけではないが、積み重なった長い長い時間を感じる。空気がたゆたっている。
そういうものと出会うと、一瞬を気にし、一分を惜しむせせこましい自分の時間感覚が分解されてゆく。それが辛いのではなく、とても心地が良い。自分のちっぽけな時間なんて、その長い長い時間の中にはいってしまえば、点にもならないだろう。その点の中であれこれ悩んだり考えたり心配したりすることがバカらしくなる。今いったい何を頑張っているのか、ふっと忘れてしまう。この長い長い時間の中にいる、それだけで大丈夫な気がしてくる。
時間を気にしすぎると、時間に分断される。時間単位が分単位に、秒単位になってゆく。それだけ小刻みになれば、時間の中に押し込まれる情報も、その分増える。刻むことは可能だが、押し込んでも押し込みきれないとき、イライラしたり、モヤモヤしたり、どんよりしたりするのだと思う。それでも時間を刻むことをいつも、やめられない。
違う次元をはしるものとの出会い
悠久のときを持つものを前にすると、時間を刻む意味をとっさに失ってしまう。たぶん、いる時間軸が違うのだ。本来交差するはずのないものが出会ったから、戸惑い、引き込まれるのだ。
意味を失うと、ぼーっとする。何もしない退屈な時間が苦痛ではない。乾いた心が何かで満たされて潤ってゆく。普段耳からこぼれてしまっている音を聞く。普段視界から落ちてしまっている景色を拾う。
時間軸が違えば、こんなにも世界が違うことに驚く。経年変化、劣化はするけど生き続けるものは、サイズが大きくなるのではなく、時を養分にして、目に見えないところで、深く、濃くなってゆく。
それがどういう価値を持つのか。見ただけではただの古いものかもしれない。異なる時間軸を生きているもの同士だから、新しい方が価値を見出さなければ、 古いものはどんどん古くなり、いつか消えてゆくか、博物館に追いやられて、ショーケースの中に安置される。古いものはそんなに主張しない。ひっそりとゆっくりと、古くなってゆく。気づかないところでどんどん失われていく。
造形物だけではない。言語、文化、考え方、人、食べ物などなど。湧いて出てくる新しそうなもの、品質が安定した画一的なものにばかり囲まれていると、失っていることにすら、気づくことができない。
経年変化がPatinaになるとき
古くなっていくものは、ただ変色したり、苔むしたり、風化したり、劣化していくだけではない。時間を積んでゆく。時間は形には残らないが、目に見えない何らかの痕跡を残してゆく。新品のぬいぐるみとくたびれたぬいぐるみだと、くたびれたほうはなぜか哀愁漂う。それを汚いとみるのか、切ないと思うのか、自分の人生の分身と思うのかは、そのぬいぐるみと自分の関係性と、自分自身の態度が決めるのであって、ぬいぐるみそのものが決めるわけではない。
経年変化が味わいになるかどうかは、接するものの価値観に左右される。味わいとして評価しているものを、Patina(パティーナ)として表現するなら、それは、自分の狂ってしまった時間軸を直してくれるものであり、自分の肥大してしまった価値観を小さくしたり、消滅させたり、転化させてくれるものであり、時には故意に捻じ曲げてしまった、自分の存在価値をも復活させてくれるものなのだ。