【Patina哲学】第七回 基準漬けのライフスタイル
モノ・コト・ヒトの経年変化を味わい楽しむブログ
知っていることを集約するベースとしての基準
生まれたときは、何一つ知っていることはない。子どもの頃、友達と遊んだり、先生に怒られたり、旅行に連れて行ってもらったり、いやいや宿題をしたりしながら、知っていることを増やしてゆく。知っているのか、分かっているのかを確かめるには、いつも基準となる指標があった。小学生の学問の達成レベルだったり、算数のできる範囲だったり、習得した漢字のレベルだったり。だから、いつも基準が、自分が知っていることを示しているベースなのだ。
基準は明確なので、その基準を満たすために努力をする。そのときに用いられる道具がテストだ。テストの点数が、学校教育における最大の基準だ。
基準を満たすための資料は自分で見つけるのではない。提供されるものだ。差し出されたものを一生懸命学ぶ。それ以外のものは基準には無関係だから、勉学においては、手に取ろうとしない。
しかし、18年間そうやって決められた基準の中で、準備された資料の中で、一生懸命努力したものが、それ以降は明確には存在しなくなる。人生80年と考えたら、残り60年近くは、自分でそれを見つけなければならない。
基準漬けのライフスタイルの結果は強固に残る。学校や教育が準備してくれていた基準がなくなったら、何をどう動いて良いのか途方に暮れる。
準備されたもの以外の基準
価値観を左右する最大の基準は、「他人の目」だ。これは準備された基準を失っても、昔から一定の基準として並列に存在している。
子どもの頃、興味を持ったり、感動していたであろう様々な小さなことは、基準を突破したい気持ちにかられる青春時代を経れば、「他人の目」もしくは、「他人の声」によって、だんだんしぼんで消えてゆく。その結果、感動は誰かにもらうものだとどこかで思うようになる。映画や漫画や小説などの非現実的物語の、若くして病気で亡くなる悲しい話や、心熱くなる青春物語や、一文無しから億万長者になるようなサクセスストーリーで、感動を得る。
文字情報より、映像の方が感動しやすい。イメージはダイレクトに脳に働きかけているようだ。しかしその感動は、簡単に手にした分、長続きしない。その感動や興奮が1ヶ月以上続くなら、その作品には力があるのかもしれない。
年を経るごとに、毎日起こることへ心が動くことは少なくなってゆく。乾いていってしまう心を潤すために、瞬間的な感動を簡単に時間をかけずに手に入れようとする。なかなか感動のスイッチが入らなければ、心の不感症が進行してしまっているので、刺激は強ければ強いほど良い。これにも基準が有効だ。みんなが良いといっているものが良く、すごい人が評価しているものが良いものだ。
特に基準がない経年変化
経年変化にはとくに基準がない。どのように劣化してゆくのか、風化してゆくのか、忘れさられてゆくのかは、そのものだけでなく、周りの環境に影響される。温度、湿度、記憶、天気、価値観など、挙げきれないほど複数の要因がある。むしろ、経年変化は周りのものが、そのものを良い意味でも悪い意味でも侵食していった結果と言える。
つくられた基準をもとに、イメージで感動を得ようとしても、経年変化によって心は容易には動かなくなってゆく。それを繰り返せば繰り返すほど、心の不感症は進行してゆき、いつも満たされない気持ちがどこかに存在し続ける。
価値をもつものは、何年たっても人の心を揺さぶり続ける。しかしそれを味わうには、脳だけにイメージがあっても不完全だ。心を動かすには、イメージ以外の要素が不可欠だ。座っているだけでは、心は容易に動かない。体が動いて初めて、心が動ける隙間ができる。心が動けば、たとえ雪がパラパラ降り出しただけで、感動する。他人の笑顔を見ただけで、幸せになる。そんなに感動させようと大げさに練り込んだエピソードは要らない。
心の感度を上げれば、他人がまだおすすめしていない、素晴らしい作品を、自分のものさしで評価、堪能できるだろう。他人の言っていることが、古く感じてしまうぐらい。
基準を捨てたところにあるPatina(パティーナ)
基準を捨てて、いつも意識していないところに目を向けたとき、心は、知らないものに囲まれていた子どもの頃のようにときめき始める。経年変化がさまざまな価値を炙り出す。見つかる価値はすべてPatina(パティーナ)になる。
時は刻々と過ぎてゆく。無意味な基準を保持しても、頭では感動できても、体は動かない。お酒を飲んで一瞬酔うように、感動に酔うことはできるだろうが、記憶には残らない。心が動くことは、すなわち体が動くこと。体験したものは、強い記憶として残り、心は弾力性を回復する。その心は、感度が強く、しなやかで、経年変化に価値を見出し、経年変化に耐えうる心になる。それを支えるものがPatina(パティーナ)なのだと思う。