【お出かけルポ】「ケの美」展に行ってきました。当たり前の日常の中にある「美」とは。@銀座ポーラミュージアム
昨年10月、私は石見銀山の群言堂で丸1月間インターン生としてお世話になりました。
その群言堂の松場登美さんが作品を出展するとお聞きして、銀座のポーラミュージアムアネックスで開催された「「ケの美」展」に行ってきました。
http://the-patina-style.jp/category/gungendo-diary
※石見銀山の群言堂で過ごした1ヶ月間のインターン日記もブログで掲載中です!
登美さんは「群言堂」のデザイナーとして服のデザインだけでなく、石見銀山で茅葺屋根の移築や、築230年ほどの朽ちかかった武家屋敷を改築した宿「他郷阿部家」を手がけるなど、さまざまな「暮らし」のデザインをしていらっしゃいます。
そんな登美さんが参加した「「ケの美」展」の中には、私たちが忘れかけている日常の愛おしさ、美しさがたくさん詰まっていました。
「ハレ」と「ケ」とは
「ハレ」=「晴れ」とは年中行事・祭りといった非日常を示します。「晴れ着」や「晴れ舞台」など、人生の節目となる大事な場面を表すときにも使われ、それに対する日常を示すのが「ケ」。
中々日頃「ハレ」と「ケ」を強く意識する機会は少ないと思いますが、かつては、特別な器を使って普段たべられないようなご馳走を食べたり、綺麗な着物を着ることができる特別な日である「ハレ」と、反対に毎日繰り返される、ごくあたりまえの日常である「ケ」は明確に区別されていました。
そんな表裏一体の関係にある「ハレ」と「ケ」。そしてその「ケ」に注目し、その中に潜む「美」について考え、作品として表現されたのが「「ケの美」展」です。
それぞれの「ケの美」を作品に
展示はグラフィックデザイナーの佐藤卓さんのディレクションの元、14名のデザイナー、クリエイターが日本の「ケ」のなかにある美について考えた展示です。
石村由起子、緒方慎一郎、小川糸、隈研吾、小山薫堂、塩川いづみ、柴田文江、千宗屋、土井善晴、原田郁子、松場登美、皆川明、柳家花緑、横尾香央留(五十音順敬称略)
日頃見過ごしてしまっていたり、自分では気づきもしなかった「美」が語られていました。
松場登美さん「ケだらけの日々」
登美さんの作品は、どれも見たことがあるはずのものなのに、心惹かれる魅力のある世界観。
実はどれも「捨てられる」運命にあったものに価値を見出したものたち。
割れた古い藍色の絵付けの陶磁器に、使用済みコピー用紙の裏紙をきれいに製本したメモ帳、浴衣の生地を裂いた紐で枯れかけた棕櫚の葉を紡いで作ったハエ叩き、浴衣のボロをチクチク刺し子をして作った「お浄布」…
ゴミとして捨ててしまえばそれまでのものに「価値」を見出し、アイディアとセンスで命を吹き込む。
「モノの一生を全うする」
モノが役目を果たすまで使うということはもちろん、そんなモノの姿に「美」を見出す心を持ってこそ、私たち自身も暮らしや人生を全うできるのではないか。そんな気持ちにさせてくれる温かさを感じる作品。
都会が「捨てる暮らし」であれば、それを「拾う暮らし」をしようという、登美さんの群言堂での想いがそのまま伝わってくるように感じました。
土井善晴さん「「ケの美」の正しさ」
土井善晴さんは、料理という日常の営みによって人間は人間となり、幸福感や多くのものを手に入れた一方で、膨大な情報や刺激的なもので溢れる現代においてはその価値が見えにくく、感じられにくくなっていると言います。
そんな中で、伝統的で持続可能な「一汁一菜」に「美」を見出しています。
日本人は古来より、独特の風土・環境の中で大自然という存在に畏敬の念を持ちながらも、稲を育て、醗酵の力で味噌をつくり、大自然の恵みを頂いてきた。
「一汁一菜」こそ、最も原始的でありながら「ケ」の本質を感じられる食事として、器を展示されていました。
確かに、数百円出せばいつでもお腹いっぱい食べられる現代において、食べ物のハレとケを意識する機会は少ないように感じます。米や醗酵食品、野菜を中心とした質素な「ケ」の食事があるからこそ、健康的に暮らすことができ、「ハレ」の食事もありがたく頂くことができる。
しかしそんな当たり前で正しい「ケ」の食事はもはや日常ではなくなってしまっていることに、私たちはもっと危機感を抱かなければならないのかもしれません。
隈研吾さん「ケの美」
隈研吾さんは、空間におけるハレとケをテーマにされていました。
日本にハレとケの空間があるように、かつて西洋の伝統的建築においても「主従」という空間を2つに分ける概念がありました。しかし、民主化、平等社会になるにつれ隔たりのない一室空間が望ましいとされてきたと言います。
しかし、隈研吾さんは空間を二分化しつつも、「上位下位」で人が分け隔てられるのではなく、同じ人間があるときは「ハレ」、あるときは「ケ」になるという日本らしい考え方に「美」を見出しています。
非階層的な日本社会にこそ、「ハレとケ」という言葉や概念がマッチしている。
だからこそ空間において「ハレとケ」を決定づける「テクスチャー」にこだわるのだと言います。「ピカピカ、ツルツル」がハレを感じさせ、「ザラザラ、フワフワ」がケを感じさせる。
そんな想いから、「ケ」を感じさせるテクスチャーとして、モルタルの刷毛引きの床材を展示したそう。そしてそれは「「ケ」のときの自分にぴったり」だと。
確かにテクスチャーにおいては、上等な絹織物や煌びやかな器などにハレを、素朴な生成りや素焼きの器にはケの美しさを感じます。同様に、空間におけるテクスチャーの中にも「ケ」の美しさや心地よさを私たちは自然に感じ取っていることに気づかされます。
他にも、たくさんの「ケ」の美が表現されていました。
それぞれの作品を見ていると、同じ「日常」をテーマにした展示でも切り取られているシーンや「美」を感じるポイントが全く異なることに驚かされます。
それは、形式化された「ハレ」よりもはるかに、日常そのものである「ケ」の美は多様性があるのだと考えさせられます。
当然それは私たちの日常の中にも。
「みんなのケ」
会場奥には「みんなのケ」というインスタレーションがありました。
これは一般の方から応募された「ケ」の写真を投影した作品。
「朝食・場所・漢字」の3つのテーマから1つ選び、つまみを左右に動かすことで世代別の写真を見ることができます。
同じテーマであっても世代によって「ケ」を感じる対象や、また写真を撮る際にどんな部分を切り取っているかに違いがあって、新たな発見を得られる面白いインスタレーションです。
さいごに
「ケ」は「ハレ」の陰日向にある日常。
その特別な日を楽しむために、地味で退屈な日常を耐えて暮らすようなイメージがなんとなく自分自身の中にもあったように思います。
しかし、「ケ」とは暮らしそのものであり、地味どころか、生きる上でのさまざまな営みが紡ぎ出す、力強くも豊かな美しさがあることに気づかされました。
現代社会では、ハレの日ばかり注目されるばかりか、ハレの日意外でも日常的に好きなだけ食べたいものを食べ、安く大量に好きな物が買えて…
と、ハレとケの区別がつかないような生活が当たり前になっていますが、今一度日常の大切さやありがたさに目を向けて暮らしていきたいと感じました。
「ケの美」展