【Patina哲学】第八回 時計の使い方
モノ・コト・ヒトの経年変化を味わい楽しむブログ
スマートフォンVS柱時計
スマートフォンを使うようになって、時計を持たなくなった。スマートフォンの時計機能は便利だ。ボタンを押せばいま何時か分単位で教えてくれる。アラーム機能もあるし、ストップウォッチ機能があるので、時間に関することはスマートフォンに預けている。スケジュール帳もからめて管理してくれるので、優秀な時計番。
時計番の体力がなくなったとき、とても焦る。まるで自分自身が時間を失ったかのように。血眼になって充電スポットを探す。アラームも頼っているので、スマートフォンを会社に忘れようものなら、朝起きれる自信はない。スマートフォンがないと、朝も起きれなくなってしまった。
田舎の温泉街に行ったとき、建物のいたるところに柱時計が据付られて、振り子を揺らしているのをたくさん見た。それは決してアンティークとして鑑賞されているものではなく、現役選手だ。時をボーン、ボーン、ボーンという柔らかい音で教えてくれる。一秒の刻み方も振り子だから、すこしゆっくりに感じる。だからかなのかわからないが、時計番が柱時計の空間の時間の流れは、スマートフォンの時間の流れより、圧倒的にゆっくりに感じる。街全体も、町内放送が時をチャイムで知らせる。時間のコントローラーは個人ではなく、街がやっている感じ。だからお店もその時間に併せて早く閉まる。
全体の時間は誰かの管理下にあって、自由にはみ出せないから、その時間内に終わらせることしかやらない。できないのだと思う。だからか、街の生産性は決して高くない。客観的に見て、寂れた温泉街だ。
護られている時間と護っていない時間
その寂れた温泉街を高いとこれから俯瞰して見ていたわたしは、ポケットにスマートフォンという便利な時計番を忍ばせている。そのとき、自分1人だけ街全体の時間から飛び出していることに気づいた。わたしの時間はパーソナルに管理しており、誰の配下にもない。だから、わたしの使える時間は24時間あり、コンビニの営業時間は当たり前のように24時間だと思っている。労働時間も8時間ではなく、だらだらと11時間ぐらい続く時もある。
寂れた温泉街の時間は、もしかしたら寺の鐘の配下にあるのかもしれないが、時間がパーソナルになっていない分、護られてるように感じた。使いたくても、使える時間には限りがある。わたしの時間は誰にも護られていない。使える時間は捻出すれば、無理をすれば、下手したら24時間使えるかもしれない。それは自分の手に委ねられている。むしろ時間がかかりそうなことは、スマートフォンやらその他の便利な機器が助けてくれるので、どんどん時間を有効利用するよう追い立てられているようだ。
常に効率化し、生産性をあげることを良しとしている。そうしないと、あの寂れた温泉街みたいになっちゃうぞと、強迫観念のように思い込んでいる。
寂れた温泉街にはなりたくないのに、あの堂々とした時計番っぷりの柱時計や、街時間を管理する権威的なお寺の鐘が、なぜか羨ましく感じた。全く生産性を上げようとしていない。むしろ、時間を包んで揺らしているようだ。それで何の意味があるのかと言われたらそれまでだが、無性にポケットからスマートフォンを出したくなる。
意味を問う時、無意識に生産性が基準になる。それは今やる意味があるのですか?無駄ではないですか、と。振り子時計の動きはかなり無駄だ。振り子にしないで針にして、針にしないでデジタル化すれば、どんどんスマートに、ハイテクに、賢くなってゆく。
電子時計と振り子時計
電子時計をもらった。CITIZEN製で、日付と時間と温度までわかる機能が付いている。会社から帰宅するのに、電車に乗車したとき、アラーム音が鳴った。その音はどこかから密かに湧いてでてきているような音だったが、だんだんリズミカルになり、大きくなってゆく。その音が自分のリュックから鳴っていることに気づいた。もらった電子時計のアラームが勝手に鳴っていたのだ。取り出して止めようにも、ストップボタンがない。仕方がないので強制終了した。わたしは時計を使うのが得意ではない。せっかくもらった電子時計にも意味なく追い立てられている。
振り子時計は、無駄なことを教えてくれる。無駄なことではなく、自分が勝手に無駄だと無意識に決めつけている、この価値観と時間軸を。振り子で催眠術をかけるように、時間軸を戻してくれている。わたしを時間のゆりかごで護ろうとしてくれているように感じる。
その動きはとても優しい。無意味な意味を問い詰めたりしない。そもそも根本的に時間の流れの意味なんて、誰もわからないのに、なぜ無意味とか無駄だと思ってしまうのだろうか。
生産性が意味の基準では、経年変化はただの効率を示す指標以外の何物でもなく、そこに価値としてのpatina(パティーナ)を見出すことは難しい。電子時計を手にしながら、基準を変えるには時計を見直すべきなのではないか、と思った。