【Patina哲学】第五回 ループする単位
モノ・コト・ヒトの経年変化を味わい楽しむブログ
時間の単位は、誰が、いつ決めたのだろう
時間にはある一定量で、単位が存在する。1時間、1日、1週間、1ヶ月、1年など。そこで想定される長さを想像するのは容易いが、その量の尺度は人によって異なるので、人によっては、感じる1日の長さは違う。
あっという間に過ぎる1日と、耐えられないほど長い1時間。単位としてみれば、1日の方が長いが、気持ちの中ではきっと、1時間のほうが長いだろう。
一定量の時間の指標があるのは何のためだろうか。規則正しく生活するには、時間の単位が不可欠だ。生まれたときから、単位がはじまる。
塊になってループする単位と止まらない時間
毎日同じ時間に起き、同じような朝食を摂り、同じ時間にギュウギュウの電車に乗り、定刻に仕事を始めて、定刻に仕事を終えるか、少し残業して帰る。帰宅後は夕食を食べて風呂に入って寝る。
人の生活はだいたいこのような塊が単調にループしている。それは「生活」と総称される。
単位はループする。どこの単位を取り上げても、規則的にループし続ける。一年単位なら、お正月、お盆、クリスマス、年末は絶対やってくる。それを無視しようにも、その日は必ずやってくる。
一方で、本当の時間に区切りはない。一見単位は無限に繰り返しているようで、時間は永遠に進み続けている。時間はいつから存在するのか、想像できないぐらいはるか昔から止まる事なく進み続けている。
わたしたちが区切っているこの単位は、本当に繰り返しなのだろうか。繰り返しの中に生きると、その時間軸で何が起きるのか、たいてい想定できる。
何時に電車が来て、だいたいどこの車両は比較的空いていて、駅から会社まで徒歩でこれくらいの時間で、仕事はだいたい午前中にこれをして午後にこれをして、想定内の仕事の依頼がチラホラ来て、だいたい終業時刻の見通しがたつ。それはとても安心できる生活だ。
蛇口をひねれば水が出てくるのを当たり前に思っているように、そのループは疑いの余地なく当たり前の生活となる。
繰り返すイメージをつくるもの
生活が単調だと感じるのは、ループする単位が同じように並んでいるかのように感じるからだろう。それはあるパターンを複製しているかのようで、並べてみても面白みに欠ける。お休みの日に自分にご褒美をあげたいのも、どこかの一枚は、少し色が違うパターンでいたいのかもしれない。
しかし繰り返しのイメージは、作られているのであって、その単位と時間の流れは同じではない。自分の意識が向く世界を切り取って、廻しているだけだ。
同じ電車に乗っていても、同じ車両に居合わせる人はいつも違う。同じ電車でも車窓から見える風景は、同じようでふといつもは目に入らなかったビルや看板が気になることがある。同じ時間に出発しても違う時間に到着することがある。きっとどこかで道草を食っている。本当はそこに作れるパターンはない。出会うものはいつも違って、新しい。
単位としてまとめると、アクセントは単位に置かれる。だから記憶も単位ひとまとめになる。そこに無数の通り過ぎていった瞬間はカウントされていない。瞬間的なことは流れてゆく。記憶に留めきれない。だから便宜上単位にまとめざるを得ない。
Patina(パティーナ)と時間単位
経年変化においてループする単位はない。経年変化がPatina(パティーナ)、味わいを持つものに変化するとき、価値を付与するものとの接点を持つときは、瞬間単位だ。ループする単位の中では、それと接点を持つことができない。
単位になった時間と、今流れていった瞬間は、タイムラグがある。単位にするから記憶に残りやすく、良い記憶も悪い記憶も単位で反芻できる。ループする単位はぐるぐる廻る。過去にいったり、未来に飛んだり。いっこうに今ここに時間の焦点がくることはない。だからこの時間の捉え方では、今この瞬間を生きるのは難しく、Patina(パティーナ)と出会う瞬間を迎えることが難しい。
生活するために時間単位は必要だが、価値の付与には邪魔になることがある。単位が優先されれば、単位を円滑に廻すために、便利で消費しやすいものが価値のあるものと判断される。その価値観では、経年変化の味わいに対して価値を付与する事が難しい。だから、Patina(パティーナ)にとって、時間単位はとても重要な概念なのだ。
ループする単位をこなしながら、瞬間に生きること。それが今を生き、Patina(パティーナ)を見つけられる生き方なのだと思う。